出会いのかけら
 
聴けば聴くほど、味が出てくるこの曲。
間違いなく、忘れられない一曲です。
 
 
自分のこれまでを振り返って、
本当に何千何万の人の中から生まれた出会いの一つ一つを
大事にしてきたかと問われると、
自信を持って首を縦に振ることはできない。、、
自信を持たずに首を縦に振ることもできない。
 
なんだろう。
年齢を重ねて色んな人と出会って、触れ合って、
それを経験として頭にすりこんで、
そうすると、自分の中で無意識のうちに、
経験から得られる判断材料をもとに、
必要な出会いとありきたりな出会いっていう具合に
切り分けをしちゃってるんだな。
 
実際はそうじゃなくて、出会った瞬間に「あ、合わなそうだな。」と
インスピレーションが働いても、後々、「いいやつじゃん。」って
仲良くなって、一生の付き合いになる人もいるし。逆もまた然りだし。
 
だから出会い一つ一つを大事にした方がいい、
とは頭では分かっているんだけど、
社交性に若干の疑問符がつく自分の性格からして、
正直それを実行することは難しい。。
疲れちゃうね。。
 
無理やり合わせることで何かが見えてくることも実感してるし、
意味のない出会いなんてないんじゃんという意味もよく分かる。
ただ、自分らしさという観点から考えると
やっぱり違和感を感じざるを得ない。
その間のせめぎ合いが難しい。
 
そこで自分の都合のいいように解釈してみる。
自分らしく、人と付き合って、それで繋がりを感じられて、
裏切り、憎しみ、喜び、悲しみ、尊敬、などなどの感情を
自分で体験出来れば、実感として自分の感情に一つ、
これまでにはないカケラをはめ込むことが出来れば、
それはそれでOKなのかなと。
 
要は、人との関わりにおいて生まれる感情を、
素直に感じることができるかが大事なのかなと思ったりする。
 
感じる情報が多ければ多いほど、
人間としての成長に繋がるという考えのもとにおいては、
どんなチャンスでも無駄にしちゃいけないよと、
分母を多くすれば、良いことはあっても悪いことはないよと、
こういうことになるが、
いくら分母が多くても、肝心のヒット数が少なければ、本末転倒。
 
打席に立つというチャンスを与えられている以上、
それを拒むなんてもってのほかだけど、
コンディションが万全じゃない打席を拒むのはアリだと思う。
 
10打数3安打でも、5打数3安打でも、
ヒット数は同じ3本。
手に入れた自分の中での感情は同じ3通り。
 
自分がこの出会いは無駄にしない、とふるいに掛けて、
それに全力でぶつかる方法でいこうかなぁと、
というかその方法でしか、自分はいけないな。。。
 
あとは、手に入れた感情を大事に自分なりに育てればいい。
 
やっぱり人との触れ合いの中で生まれる感情ってのは、
他人からいくら話を聞き尽くしても、
100%その人の感情を理解するのは絶対不可能で、
また、感情論を懇々と綴っている本を読んでも、当たり前だけど、
自分の中に芽生える感情は、経験に勝るものはないわけで。
 
そう考えると、得た感情の中に、
いらないものなんてないんだな。
 
寂しさ、悲しさ、孤独感などなどという
敬遠されがちな感情は、体験した人、持ってる人の方が
あとあとのことを考えると絶対得だと思う。
 
もちろん、その感情を体感しているど真ん中の状況においては、
「やだな、、」「楽しい、幸せなことがいいな」と思うのが当然だけど。
 
理想はスムーズに平穏無事に過ごすのがいいけど、
そんな人、一人もいないわけだから、
先を見ると、自分がトラぶった時に、
底力として少しでもプラスになるものがあった方がいい。
大事な人がトラぶった時に手を差し伸べてあげられる方がいい。
 
その時の「こうしよう」「手を貸すよ」という第一歩に、
過去の自分が財産として残してくれた感情をぶつけることが
出来ればいいんじゃないかなぁ
 
「さよなら」はいつも悲しくさせる

痛みを知って 優しくなれる
 
だ。
 
めぐり会いの中で生きてく、また人を少し好きになる。
喜びや悲しみさえ全て 自分の事と受け入れたなら。

 
10年前、5年前に比べて、
また人を少し好きになっている自分にほっとしました。
「少し」ってところが何とも味があっていいよね。
 
そんなことよりも、
ケツメイシの新曲、出ないかなぁ。。
  
ソイヤ